ダイナミック瞑想の詳しい説明 (テキスト情報)

OSHO「MEDITATION: The First and Last Freedom 」邦訳「新瞑想法入門」(瞑想社刊)より引用

瞑想とはエネルギー現象だ。エネルギーの全ての形態について、ひとつ非常に基本的なことが理解されねばならない。「エネルギーは2極間を動く」・・これが、その理解を要する基本的な法則だ。これがエネルギーの唯一の動き方であり、これ以外の動き方はない。

それは2つの対極の間を動く。エネルギーが力動的になる為には、対極がいる。それはちょうど陰と陽の両極で動く、電気のようなものだ。陰極だけでは電気は起こらない。陽極だけでも電気は起こらない。両極が必要だ。その両極が出会えば電気が発生する。そうなれば、その電気が閃光を発する。

これは、あらゆるタイプの現象について言うことが出来る。生は、男と女の間で、両極の間で展開されてゆく。女性は陰の生命エネルギーであり、男性は陽の極だ。それは電気的なものであり、男と女があれほど互いに引き合うのは、その為だ。男性だけでは生は消滅するし、女性だけでも生はあり得ず、ただ死しかない。男女の間にはバランスが存在する。男女の間・・この2極、この両極の堤(つつみ)・・にこそ「生」という河が流れる。

どこを見回そうと、ひとつの同じエネルギーが両極の間を動き、自らのバランスを取っているのが分かる。この両極性は、瞑想にとって極めて意味深いものだ。なぜならマインドは論理的だが、生は弁証法的だからだ。マインドが論理的だと言う時、それは「マインドは直線的に進む」ということを意味する。生が弁証法的だと言う時、それは「生は直線的ではなく、正反対のものと共に動く」ということを意味する。それは陰から陽、陽から陰というようにジグザグに進む。その動きはジグザグであり、互いに相反するものを利用している。

だがマインドは線状に、単純な直線上を進む。それは決して反対のものへ移行せず、反対のものを否定する。マインドは「一」を信じ、生は「二」を信じる。だから、何であれマインドによって創り出されるものは、必ず「一」を選ぶ。たとえばマインドが沈黙を選べば・・人生において創り出される、あらゆる騒音にうんざりし、沈黙を決意すれば・・その時、マインドはヒマラヤへ行く。マインドは沈黙したがっており、いかなるたぐいの騒音とも関わりを持ちたくなくなる。鳥のさえずりでさえ妨げになる。木々を吹き抜けるそよ風も妨げだ。マインドは沈黙したい。それは直線を選んでいる。そうなると、正反対のものは、全く否定されなければならない。

だが、ヒマラヤで暮らすその男は・・沈黙や静寂を求め、他者や反対のものを避けているその男は、死んだように生気がなくなる。彼は明らかに鈍くなる。静かになろうとすればするほど、ますます鈍くなる。なぜなら生には正反対のものが、その挑戦が必要だからだ。

2極間に存在する、異なったタイプの静寂がある。第1のものは、死んだように生気のない静寂、墓場の静寂だ。死人は静かだが、あなたはまさか死人にはなりたくないだろう。死人は完全に沈黙している。彼を妨害出来る者はいない。彼の集中は完璧だ。彼のマインドを惑わすことは出来ない。彼のマインドは完全に固定している。たとえ世界中が狂ったように騒ぎ立てても、彼は「集中」したままだ。だがそれでも、あなたは死人でありたくはない。それを静寂と呼ぼうが、集中と呼ぼうが、とにかくあなたは死んでいたくはない。いくら静寂であろうと、死んでいたのでは意味がないからだ。

静寂は、自分が本当に生き生きとし、活力に溢れ、生命力に満ちている時に起こらなければならない。そういう静寂なら意義がある。だがその静寂には、全く次元の違う質がある。それは鈍くなく、生き生きとしている。2つの極の間の精妙なるバランスだ。生きたバランス、生きた静寂を探求する人は、ヒマラヤ山脈と世間の、両方に行こうとする。騒音を楽しむ為に市場へも行くし、静寂を楽しむ為にヒマラヤの山々へも行こうとする。彼は両極間にバランスを見い出し、そのバランスの中に留まり続ける。だが、そのバランスは直線的な努力では達成出来ない。

禅の「無努力の努力」という方法が意味するのは、それだ。禅は矛盾した語彙を用いる。「無努力の努力」「門なき門」「道なき道」といった風に・・禅は常に、即座に、矛盾した語彙を用い、その過程が直線的ではなく、弁証法的だと暗示する。対極は、否定されずに吸収されるべきだ。対極を置き去りにしてはならない。それは使われなければならない。置き去りにすれば、それはあなたにとって、常に重荷になる。置き去りにすれば、それはつきまとう。それを使わなければ、あなたは多くのものを取り逃がすことになる。

エネルギーは、変換して使うことが出来る。そうなれば、それを使うことによって、あなたはより活気に満ち、生き生きとして来る。対極は、吸収されなければならない。そうすれば、その過程は弁証法的なものとなる。無努力とは何もしないこと、アカルマ、すなわち無活動、無為を意味する。努力とは多くを為すこと、カルマ、すなわち活動を意味する。その両方がなければならない。多くのことをしながらも、その行為者であってはならない。そうすれば、あなたはその両方を達成する。

世間の中へ入って行きなさい。だが、その一部であってはならない。世間の中に住みながらも、世間を自分の中に住まわせてはならない。そうなれば、対立や矛盾は吸収されている。それが私のしていることだ。ダイナミック瞑想は、ある意味では矛盾だ。ダイナミックとは、努力、多くの努力、絶対的な努力を意味する。そして瞑想とは、静寂、無努力、無為を意味する。だからダイナミック瞑想を、「弁証法的瞑想」と呼んでもよい。

↑の動画はOSHO自身が現代人にとってのダイナミック瞑想などのアクティブメディテーションの必要性を語っている講話(英語)

 

第1ステージ・・・10分間の深く混沌とした呼吸
呼吸をハンマーとして使い、速く深く混沌とした呼吸をし、ふいごのようになる。息を吸い、息を吐く。これは奇跡を行なう。あなたが抑圧した感情を解き放す手助けをする。

第2ステージ・・・10分間のカタルシス(発散浄化作用)
あなたの狂気全てを表しなさい。恥ずかしがってはならない。我々はその為に集まったのではない。他人を怖れてはならない。自分はただひとり、ここにいると考えなさい。覚えておきなさい。あなたは内側に多くの狂気を持っている。あなたはそれを知っている。だから怖れるのだ。それを解き放しなさい。叫びたかったら叫びなさい。泣きたかったら泣きなさい。飛び跳ねたかったら飛び跳ねなさい。踊りたかったら踊りなさい。子供のようになりたかったら・・自分の体と遊ぶ、飛び跳ねる、踊る、叫ぶ・・そうしなさい。

プレイフルにやりなさい。深刻になってはならない。深刻だとトータルに解き放てない。あなたが本当に自分の狂気を超えたかったら、これがその方法だ。

第3ステージ・・・10分間、ジャンプし、マントラ「フー」あるいは「フウッ」を叫ぶ
Hoo !Hoo! Hoo!と大声で強制的に叫ぶことに、命が懸かっているかのように、あなたのエネルギーをトータルに注ぐ・・Hoo!と叫ぶ時、息全てが吐き出される。大きく叫べば叫ぶほどよい。呼吸した全てが外に出るように、音と共に息を吐く。これはあなたの内側に空間を創り出す。この空間で、性エネルギーが上昇することが出来る。マントラ、Hoo!は、性エネルギーが上昇するのを助ける。この内なるエネルギーの流れは、あなたをすっかり変える。

第4ステージ・・・ストップ! 15分間の完全な静止と沈黙
動いてはならない。何もしてはいけない。私がストップと言うのが聞こえたら、手が上がっていたとしても、ジャンプしていたとしても、そのまま止まりなさい。私の声を聞いた瞬間、あなたがもういないかのように、石や彫刻になってしまったかのように感じなさい。動いてはならない。叫んではいけない。音も動きもない。突然、誰もが死んでしまったかのようになる・・この突然の停止で、あなたはセンターに投げ込まれる。

ほんの一瞬前、あなたは大竜巻のように、狂ったように動いていた。突然、私が「ストップ!」と言い、全てが停止する。あなたは観照者となる。だが、あなたは直ちに止まらなくてはならない。何かするのであれば、あなたはこの瞬間を失ってしまう・・

15分間あなたは、この石のような状態でい続ける。この15分間は、新しい体験となるだろう。あなたは内側の新しい空間に入る。それは何かあなたを超えるもの、今まで知らなかったものだ。その一瞥さえもが、あなたを至福で満たすだろう。この15分間、石のような死んだ状態で、あなたは初めて本当に生きる。あなたは立会人に、自分の体の観照者になる。

この観照が瞑想だ。この観照で、あなたは光に満たされているのを感じる。至福があなたの中に入り、神聖な存在が至るところにある。内側、外側、周り中に。だがあなたはあらゆることの、光の至福の神聖な存在の観照者となる。ただ観照者だ。

第5ステージ・・・15分間の祝祭のダンス
歌いなさい、踊りなさい。そこにある至福やエクスタシーを全て表現しなさい。

私のダイナミック瞑想というシステムは、呼吸から始まる。それは、呼吸が生命に深く根ざしたものであるからだ。おそらく気づいていないだろうが、もし呼吸が変えられれば多くのことが変えられる。

自分の呼吸を注意深く観察してみれば、怒っている時には、怒っている時特有の呼吸のリズムがあることが分かるだろう。恋している時には、それとは全く違うリズムになるだろう。寛いでいれば、また違った呼吸となる。緊張していれば、また別な呼吸になる。寛いでいる時のような呼吸をしながら、同時に怒るということは出来ない。それは不可能だ。

性的に興奮した時も、呼吸は変わる。あえて呼吸が変わらないようにしたなら、性的興奮はひとりでに収まる。これは呼吸が、精神の状態に深く関連していることを意味する。呼吸を変えることによって、マインドの状態が変えられる。逆に、マインドの状態を変えれば、呼吸も変わる。

OSHO「MEDITATION: The First and Last Freedom 」邦訳「新瞑想法入門」(瞑想社刊)より引用

だから、私は呼吸から始める。この瞑想の第1ステージは、10分間の混沌とした無秩序な呼吸だ。「混沌とした呼吸」とは、一定のリズムを作らない、深く、速く、力強い呼吸をするという意味だ。息を吸って、それを吐き出す。息を吸って、吐き出す・・これを出来る限り力強く、深く、強烈にやる。息を吸い、それを吐き出すのだ。

この無秩序な呼吸は、あなたの中の抑圧されたシステムに、混沌を生み出す為のものだ。誰もが、呼吸に一定のパターン(型)を持っている。子供には子供なりの呼吸がある。セックスを怖れている人間には、それなりの呼吸の仕方がある。あなたは深い呼吸が出来ない。それは、深い呼吸がセックスセンター(性中枢)を打つからだ。怖れがあれば、深い呼吸は出来ない。その恐れが、浅い呼吸を生み出す。

この混沌とした、無秩序な呼吸は、過去のパターン全てを破壊する為のものだ。あなたが自分ででっち上げて来たものを、この混沌とした呼吸が破壊する。なぜ混沌とした呼吸によって、あなたの中に混沌を創り出すかと言えば、混沌が創り出されない限り、抑圧された感情を解放することは出来ないからだ。そういった感情が、既に身体の中に入り込んでしまっているからだ。

あなたの身体と精神は、別々ではない。あなたは「身心」つまり身体とマインドの両方だ。従って、体になされることは何であれマインドに届くし、マインドになされることは、何であれ体に届く。体とマインドは、ひとつの同じ実体の両端だ。

10分間の無秩序で、混沌とした呼吸は素晴らしい。だがそれはいずれにせよ、無秩序なものでなければならない。これはヨーガの呼吸法、プラナヤーマ(調息)のようなものではない。単に呼吸を通して、混沌を創り出しているだけのことだ。そして混沌を生み出すことについては、多くの理由がある。

深い、速い呼吸は、より多くの酸素を供給する。体内に多くの酸素が入ると、人は動物のように生き生きとなる。動物達は生き生きとしているが、人間は半分死にかけている。あなたは、再び動物にならなければならない。そうして初めて、あなたの中に高次のものが発達することが出来る。

あなたが半分しか生きていなかったら、手のつけようがない。だからまず、この混沌とした無秩序な呼吸によって、あなたを動物のように生き生きと、躍動し、活力に溢れるようにする。血液内に多くの酸素を入れて、細胞に多くのエネルギーをもたらすことによって、あなたの体の細胞は生き生きとして来る。そして大量に酸素を取り入れることにより、体に電気が起こって来る。それは「生体エネルギー」と言ってもよい。そして体内に電気が起これば、自分自身を超えて内側へ深く入ってゆくことが出来る。その電気は、あなたの中で働いている。

身体は、そのものの中に電気の発生源がある。激しい呼吸と多くの酸素によって、その発生源を叩けば、体内に電気が流れ始める。そして本当に生き生きとしてくれば、あなたはもはや体ではなくなる。生き生きとすればするほど、体内組織により多くのエネルギーが流れ、あまり自分を肉体的には感じなくなる。あなたは自分を物質というよりは、エネルギーのように感じる。

より生き生きとした状態が起こる時、あなたは肉体指向ではない。性にそれほど強い魅力があるのはその為であり、これがその理由のひとつだ。もしあなたが真に行為の中にあり、動きそのものになり、完全に生き生きとしているなら、あなたはもはや肉体ではない。まさにエネルギーだ。彼方に向かおうとするなら、このエネルギーを感じ、このエネルギーと共に生き生きとしていることが、絶対的に必要になる。

このダイナミック瞑想という方法論の第2ステージは、カタルシス(発散浄化作用)だ。私は「意識的に狂いなさい」と言う。何であれマインドにやって来るものが・・何であれだ・・自らを表現することを許しなさい。それに合わせなさい。抵抗することなく・・ただ感情がほとばしるに任せる。悲鳴を上げたければ、悲鳴を上げなさい。それに合わせ、協力しなさい。深い叫び、あなたの全存在が巻き込まれるような絶叫は、極めて治癒力のあるもの、深くまで癒すものだ。多くのもの、多くの病が、ただ叫ぶだけで解放される。叫びが全面的なものであれば、あなたの全存在がそこに込められる。

だからこの10分間では・・この第2ステージもまた10分間だ・・泣くこと、踊ること、叫ぶこと、むせび泣くこと、飛び跳ねること、笑うこと、などを通して自分自身を表出しなさい。いわゆる「ぶっ飛んでしまう」というやつだ。数日もしたら、あなたはそれを実感し始める。

はじめの内、それは強いられた努力かもしれないし、ただの演技でしかないかもしれない。私達はあまりにも欺瞞的なっているから、本当のこと、本物のことは何ひとつ出来ないようになっている。私達は真に笑ったことがない、泣いたこともない。腹の底から叫んだこともない。何もかもが見せかけ、仮面だ。だからこの技法を始める時・・最初の内だけが・・それは強いられたものになるだろう。努力がいるかもしれない。ただの演技であるかもしれない。だが、それを気にしてはならない。続けなさい。

まもなく、あなたはそういう多くの抑圧の根に触れる。その根源に触れる。ひとたびそれが解放されたら、あなたは重荷を降ろしたように感じる。新しい生が、あなたの元にやって来る。新しい誕生が起こる。この重荷からの解放は基本的なことであり、それなしでは、人が今のままでは、瞑想は起こり得ない。私はここでも例外というものを想定していない。例外というものはあり得ない。

この第2ステージで、ものごとが投げ出された時、あなたは空っぽになる。まさにこれが「空」の意味だ。全ての抑圧を空っぽにすることが・・この「空」の中で初めて、何かが為され得る。変容が起こり得る。瞑想が起こり得る。

第3ステージでは、私はHoo(フー)という音声を使う。過去にも多くの音声が使われて来た。それぞれの音には、何かしら特有の効果がある。たとえばヒンドゥ教徒達は「オーム」という音声を使っている。これは、あなたにとって親しみやすいかもしれない。だが私は「オーム」を勧めない。なぜなら「オーム」は、ハートのセンター(中枢)を打つが、人はもはやハートに中心を持っていないからだ。だから「オーム」は、無人の家の扉を叩いていることになる。

スーフィー達は「フー」を使って来た。「フー」「フウッ」と大声で叫べば、それは深くセックスセンター(性中枢)にまで届く。従って、この音はまさに内側への一撃として使われる。あなたが空っぽで真空になった時、この音はあなたの内側に入ってゆくことが出来る。この音の浸透は、あなたが空っぽになって初めて可能になる。抑圧でいっぱいなら、何も起こらないだろう。それどころか、抑圧でいっぱいな時にマントラや音を使うのは、ややもすると危険ですらある。抑圧の諸層が音の通路を変え、最終的には夢にも思わなかったもの、思いも望みもしなかったような結果になるかもしれない。

空っぽのマインドが必要だ。そうして初めてマントラを使うことが出来る。だから、マントラを最初から使うことは勧めない。まずはカタルシスが必要だ。この「フー」というマントラは、最初の2つのステージなしでは、絶対に行うべきではない。第3ステージで初めて、この「フー」が使われるべきだ。徹底的なエネルギーでもって、出来る限り大声でそれを打ちつける。この音声で、自分のエネルギーを強打するのだ。あなたが空っぽなら・・第2ステージのカタルシスによって空っぽになっていれば・・この「フー」は奥深くまで届き、セックスセンターを打つ。

セックスセンターを打つには、2通りの方法がある。第1の方法は自然法則に従う。異性に惹かれた時には、セックスセンターは外側から打たれる。その一撃は微妙な波動でもある。男性は女性に惹かれ、女性は男性に惹かれる。なぜか?男性の中にある、女性の中にある、その要因となるものは何か?プラスもしくはマイナスの電気が、微妙な波動が、彼らを打つのだ。実際、それは音波だ。

たとえばあなたも、小鳥達が互いに性的に呼び合うのに、音を使っているのを聴いたことがあるだろう。小鳥のさえずりは全て性的だ。彼らは、特定の音によって再三再四、互いを刺激し合っている。その音は、鳥の異性のセックスセンターを打つ。

微妙な電気的な波動が、あなたを外側から打っている。そしてセックスセンターが外側から打たれると、エネルギーは外側に流れ始め、相手に向かう。するとそこには再生産、誕生がある。他の誰かが、あなたから生まれる。

「フー」は、同じエネルギーセンターを内部から打つ。セックスセンターが内側から打たれると、エネルギーは内側を流れ始める。このエネルギーの内なる流れは、完全に人を変えてしまう。あなたは変容される。自分自身が誕生するのだ。エネルギーが全く反対の方向に流れ始めて、人は変容される。そうなると今は外に流れているエネルギーも、内側に流れ始める。そうなると今は下降しているエネルギーも、上に向かって流れる。このエネルギーの上昇が、クンダリーニとして知られているものだ。

あなたは、それが実際に脊椎を流れるのを感じる。そしてそれが上昇するにつれて、あなたもそれと共に上昇する。このエネルギーがブラフマ・ランドラ(梵の座)に到達した時、あなたは至上の人間となる。ブラフマ・ランドラとは、頭頂部にある第7のセンター(中枢)であり、人間の最後のセンターだ。

第3ステージでは、エネルギーに上昇をもたらす媒体として「フー」を使う。最初の3ステージまではカタルシスだ。それは瞑想ではなく、その為の準備に過ぎない。それは飛躍そのものではなく、飛躍を遂げる為の用意だ。

第4ステージが飛躍だ。第4ステージで、私は突然「ストップ!」と言う。私が「ストップ!」と言ったら、完全に止まりなさい。何もしてはいけない。というのも、何をすることも方向を逸らすことになり、あなたは要点を逃してしまうからだ。何であれ・・ただの咳やくしゃみでも・・それでマインドが散らされて、あなたは全てを逃してしまうかもしれない。そこであなたの注意がグラついて、上向きの流れは直ちに止まってしまうだろう。

何もしてはならない。何もそれで死ぬ訳ではないのだから。くしゃみがしたいのを10分間我慢したところで、それで死ぬ訳ではない。咳をしたくなって、喉にいがらっぽさを感じながら我慢したとしても、それで死ぬ訳でもない。エネルギーが、ひとつの上向きの流れとなって動けるように、身体を死んだようにさせておきなさい。

エネルギーが上昇すると、あなたはもっともっと静かになる。静寂は上昇するエネルギーの副産物であり、緊張は下降するエネルギーの副産物だ。今や全身は極めて静かであり、まるで消え失せてしまったかのようだ。それを感じることすら出来ない。あなたは体なしになる。そしてあなたが静かな時、全存在が静かだ。なぜなら、存在は鏡に他ならないからだ。それはあなたを映し出す。何千もの鏡の中に、あなたが映し出される。あなたが沈黙する時、全存在が静かになる。

その沈黙の中で、ただ観照者、目撃者でありなさい、と私は言おう・・それもたゆまぬ注意深さと共に。何もせず、ただ目撃者に留まり、ただ自分自身と共に留まる。何ひとつやってはならない・・動くことも、欲望することも、何かになることも・・ただその時、そこに留まり、起こっていることを静かに目撃している。

この中心に留まること、自分自身に定まることは、最初の3ステージがあって初めて可能となる。その3つがなされない限り、あなたは自己に留まることが出来ない。それについて話をしたり、考えたり、夢を見たりすることは出来る。が、あなたに用意が出来ていないのだから、それは現実のものにはならない。

この最初の3つのステージが、あなたをして瞬間に留まる用意を整えさせる。あなたを目覚めさせる。それが瞑想だ。その瞑想の中で、言葉を超えた何かが起こる。そしてひとたびそれが起これば、あなたは2度と同じものではあり得ない。それは不可能だ。それは成長であって、単なる体験ではない。それは成長だ。

*観照者のままでいなさい

・・これは何をしている時も、絶えず注意深く、意識し、気づいているという瞑想だ。観照者、目撃者のままでいることだ。迷子になってはならない。行方不明になるのは簡単だ。呼吸をしている時にも、あなたは忘れてしまうかもしれない。呼吸と一体化するあまり、観照することを忘れてしまうかもしれない。が、そうしたらあなたは要点を取り逃がしてしまう。出来る限り速く、深く呼吸し、自分の全エネルギーを注ぎ込み、しかも観照者のままに留まりなさい。

起こっていることを観照しなさい。あたかも自分がただの傍観者であるかのように、あたかも全ては他人に起きているかのように、あたかも全てはただ肉体だけに起こっていて、意識はまさに中心に定まり、ただそれを見ているだけであるかのように。

この「観照」が、これら3つのステージ全てに保たれなければならない。そして何もかもが止まる時、第4ステージにおいて、あなたが完全に無活動に、凍りついたようになる時、この注意深さ、覚醒は、その頂点を極める。

第3ステージでは、エネルギーに上昇をもたらす媒体として「フー」を使う。最初の3ステージまではカタルシスだ。それは瞑想ではなく、その為の準備に過ぎない。それは飛躍そのものではなく、飛躍を遂げる為の用意だ。

 

↑の動画はダイナミック瞑想をするときに実際に使われる音源(OSHOのガイド付き【ヒンディー語と英語】)

 

他にもダイナミック瞑想に関する講話が載っている邦訳は、 「瞑想、祝祭の芸術」(めるくまーる社)「奇跡の探究1」(市民出版社) 「グレート・チャレンジ」(市民出版社)など、また違った角度から説明しています。

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    ようやく曼陀羅 マンダラ がネパールから入荷しました。
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