曼荼羅 マンダラとは何か?(学術的な説明)

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真理、悟りの世界も表現できるのか?

悟りや真理などの体験は他者につたえることはできるのだろうか?

この事について松長有慶 著「密教・コスモスとマンダラ」という書籍が分かりやすく
詳しい説明をしてくれています。

悟りの内容を、文字とか言葉でもっていいあらわすことはできない。宗教体験をそのまま他に伝達することが不可能であることは、仏教徒もよく知っていた。釈尊が菩提樹の下で悟りを開かれたあと、それを弟子たちに示し、一般の人たちに教えることを思い止ったという言い伝えに、それがあらわれている。

大乗仏教でも、それを悲とか不といった否定詞をつけて表現しようとしたり、空とか如とかそれに近い表現と思われる言葉で代用しようとしたものである。また「般若経」や後期の密教経典では「光り輝くもの(プラバースヴァラ)」といった、悟りの境地を連想させるような言葉を用いることもある。

とはいえ、真理は言語の道が絶たれたもので、正確にそれを表現することは不可能であるというのが仏教のみならず、宗教界にあっては常識とされた。このことを専門的な言葉を使えば、「果分不可説」という。中国仏教では、現象世界を因分といい、絶対の世界、真理の世界を果分と名付ける。因分は可説であっても、果分は不可説であった。

松長有慶 著 「密教・コスモスとマンダラ」から引用

やはり悟りや真理の世界は表現できないのだろうか?

引き続き「密教・コスモスとマンダラ」から引用を続けます。

ところが真理の世界が、現実世界と没交渉であり、伝達することがまったく不可能なものであるならば、真理それ自体はわれわれ人間にとって無意味な存在となる。真理はなんらかの形で、われわれと関連を持つものでなくてはならない。果分もまた、なにかの形でもって可説でなければ、仏教そのものが成り立たないことになる。

空海は果分不可説という当時の常識に対して、果分の可説を主張した。なぜ密教では真理の世界が表現できるのか。それは世間で通用する文字とか言葉ではなく、真理そのものを直接表現することのできる如義言説によって、第十番目の認識作用をおこすもとになる一一識心が働くためという。

つまり通常の論理による認識作用ではなく、直感智を通して、象徴として、真理から送られてくる暗号を解読する。このような手続きによって真理を捉えることができる。いいかえれば、真理はたえずわれわれに向かって、暗号を送り続けている。その暗号を解くか、解かないかは、われわれの受け取りかたいかんに関わる問題なのである。果分を不可説と観るか、可説と観るかは、真理が表現している象徴を読み取れるかどうかが分かれ目になってくる。

もとよりその象徴は、人間の理性だけに頼っていては、理解することはできない。理性より、それは人間の持つあらゆる感覚器官を総動員することによって、直観的に捉えるしか手だては残されていない。五感を完全に働かせることによって真理を捉える方法を、密教は用意して持っているということになる。

松長有慶 著 「密教・コスモスとマンダラ」から引用

この悟り、真理の世界を表現することができるという果分可説のスタンスが密教の一番の特徴ということになります。

 

そして曼荼羅 マンダラをみることは、人間の五感の中の視覚を通じて真理を把握するという方法ということになります。

 

曼荼羅(マンダラ)の種類

 

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曼荼羅(マンダラ)とひとことで言っても色々な種類があるので、ここでは曼荼羅(マンダラ)の定義と曼荼羅(マンダラ)の種類について書いていこうと思います。

図書館で曼荼羅(マンダラ)関連の書籍を調べてみると、けっこうな数の関連本を見つけることができますが、その中で「マンダラとは何か?」について一番分かりやすい表現をしていたのは、やはり松長有慶さん著 「密教・コスモスとマンダラ」なので、引き続き引用します。

曼荼羅を性格別に段階を追って見れば、つぎのようになる。
まず現実世界は、そのまま本質として曼荼羅であるという密教の基本的な考え方がある。
それを心象化して、行者の観想の中に、聖なる世界として仏、菩薩などがあらわれる。
それを絵画化したものが、われわれが密教寺院でみる曼荼羅ということになる。

松長有慶 著 「密教・コスモスとマンダラ」から引用

「マンダラとは何か?」という素朴な問い対する簡潔な定義は上記のものになるかと思います。

まず密教行者にとっては、「現実世界の森羅万象ことごとくが無限の価値を持ち、そのままが曼荼羅の世界となる。現実世界を聖なる世界と見る。」

これを「自性のマンダラ」と言います。

一方「その聖なる世界を心象化して、密教行者が瞑想(=観想)の中に聖なる世界として仏、菩薩などがあらわれる。」→これを観相のマンダラと呼びます。

「それを絵画化したものが、われわれが密教寺院でみる曼荼羅ということになる」→これを図絵のマンダラと言い通常私たちが知っている曼荼羅 マンダラになりますこれ以降 曼荼羅 マンダラと言うとき、図絵のマンダラを指すことにします。

 

つぎに、曼荼羅 マンダラを表現方法によって、4種類に分けることができます。

①大曼陀羅=仏、菩薩、明王などが具体的な姿を執って描かれた曼荼羅であって、サイズの大小をいうわけではない。一般に曼荼羅といわれている絵画化された曼荼羅がこれである。

②三昧耶曼荼羅=仏、菩薩などの事物である刀剣とか輪宝とか金剛杵とか蓮花などをいう。直接、仏像を描くのではなく、それぞれの仏、菩薩などの性格を象徴的にあらわす持物のみをもって、曼荼羅を描くところに特色がある。ex. 剣と経文によって文殊菩薩を、蓮花によって観音菩薩、あるいは阿弥陀如来を、宝珠によって宝珠如来をそれぞれ表すといった具合である。

③法曼荼羅=本尊の種子とか真言をもって描いた曼荼羅のことである。種子とは諸尊の性格を、サンスクリット文字の一字に凝縮したものをいう。
ex. たとえばアは胎蔵の大日如来、バンは金剛界の大日如来、キリクは観音菩薩、フーンは不動明王のそれぞれの種子である。

④羯磨曼荼羅= 以上の三種の曼荼羅の諸尊それぞれの働きを、曼荼羅としたものである。羯磨とはサンスクリット語のカルマの音訳で、働き、作用といった意味を持つ。現実世界がそのまま曼荼羅であると見る立場からすれば、小川のせせらぎ、風のそよぎ、星や月の運行にいたるまで、すべて諸仏の活動となる。

 

松長有慶 著 「密教・コスモスとマンダラ」から引用

 

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これは①の大曼陀羅に分類 カテゴライズされます。

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こちらはチベット文字がみられるので、③の法曼荼羅に分けることができると思われます。

 

曼荼羅の成り立ち

「曼荼羅 マンダラ」とは何か?そして「曼荼羅の種類」について見てきましたが、次は「曼荼羅の成り立ち」について簡単に説明していこうと思います。

「曼荼羅」というのは、もともとサンスクリット語の「マンダラ」の音訳です。この言葉は、インドではさまざまな意味に使われています。その中で、集合、区分、円輪、本質的なもの、壇、道場などが、通常現在わたしたちが定義する曼荼羅と関連を持っています。ちなみに漢訳仏典では、それを輪円具足(りんえんぐそく)と訳しています。

下記「曼荼羅の成り立ち」の上記の説明ついて松長有慶 著 「密教・コスモスとマンダラ」が具体的で分かりやすいので、引用します。

曼荼羅は諸仏、諸菩薩の集合図であり、いくつかの枠によって区分されており、円い輪の形を基本にして描かれている。本質的なものというのは、「大日経」の具縁品に見る説で、現在では曼荼羅の語義を一つだけあげる場合に、よく用いられる。大宇宙の本質的なものを、観想の中に、あるいは絵画の中に凝縮したものが曼荼羅というわけである。

道場とは釈尊の悟りを開いたブッダガヤの金剛座を菩提道場、すなわちボーディマンダ、あるいはボーディマンダラという用例による。悟りの本質のある場所という意味である。

壇というのは、曼荼羅のもとが土壇を築いて、その上に神々の降臨を願うバラモンの儀礼に由来する。それがのちに仏教に取り入れられたが、曼荼羅はもともと土壇につくるのが本筋である。

以上が「集合」「区分」「円輪」「本質的なもの」「壇」「道場」などの意味をもつ曼荼羅 マンダラの説明になります。ひとことに曼荼羅 マンダラといっても、これだけ色々な要素や意味が含まれているんですね。

次に曼荼羅 マンダラの形の起源についてみていこうと思います。

 曼荼羅の形は、古代インドの王城を模したものと思われる。曼荼羅の周囲をかこむ円は城郭であり、そこに描かれている燃える火焔とか光剛杵などは、内側の聖なる世界と、外側の俗なる世界を区切る結界である。その図柄は、外敵の侵入を阻止した城壁を想像させる。

王城の四方の門には、いつも護衛がひかえているが、曼荼羅の四門は、古くから四天王が守護することになっていた。王城の中心部に四仏があらわれるのは、四世紀のことである。「金光明経」とか「観仏三昧海経」などには、妙喜国という仏の国を支配する阿閦が東に、歓喜国で崇められる宝生が南に、極楽国の主である阿弥陀は西に、蓮花荘厳国で信仰の篤い微妙声が北に配せられている。

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まさに上の曼荼羅がよい例で、四方に王城があります。